決まり事のように毎週立ち寄る場所がある。 金曜日の仕事終わり、足を運ぶ喫茶店。 文庫本を持ち込みゆったりと過ごす特別な時間。 目的はコーヒー、紅茶……では勿論無い。 彼女。 ただ、エプロン姿の女性を見に行くだけにここに寄る。 完璧に片思い、それも2ヶ月。 話した事は普通に喫茶店の店員とお客の簡単な言葉のやり取りのみ。 ただ、この一言が2ヶ月間も声に出来ない。 「あなたの名前は?」 そこから既に止まっている。 たった一言が聞けずに時間だけは進んで行く。 「お待たせしました、コーヒーです。ごゆっくりどうぞ」 この一言にとても幸せを感じている自分自身が居る。 そう言ってカップを置く彼女、私に背を向け厨房に帰って行く彼女。 彼女の声、彼女が持ったカップ、ソーサー。 そう思うととても尊いもののように思えてくる。 そして自身は変態なのだろうか……という少し悲しい現実を思い知らされる。 彼女と同じ空気を吸っているかと思うだけで神聖な空間、時間。 たった1時間程度の短い時間だけれども、仕事で疲れた一週間の肩にたまったものを忘れされてくれる。 癒しだけでは無く、片思いという要素が含まれているこの時。 彼女の持ってきたコーヒーを一口。 苦い……実はコーヒーはあまり好んでは飲まない。 なぜ好きではないコーヒーなのか。 カップの中身が無くなると、彼女がおかわりを注ぎに来てくれる。 ただ、それだけ。 開いている小説の文字なんて全く頭に入ってこない。 彼女と居るこの空間を味わう。 彼女が近付く足音に耳が反応し、身体が強張る。 私のテーブルの横を歩く彼女。 すらりと伸びた足、ふんわりと丸みを帯びた腰、肩。 その姿を焼きつけながらの週末はいつも楽しみだった。 ああ、今日は遅くなってしまった。 時計は既に9時半を回っている。 残業でどうしても今週中に終わらせなければいけない書類を上司から任された。 もうすぐ定時、と思っていた矢先に机の上に置かれた書類。 「すまんが、任されてくれないか!」 と言われて断れる訳が無い。 これだと1時間程度で終わるかな、と思っていたのだがそうもいかなかった。 時計を見つつ、必死で終わらせたのだが結局終わったのはついさっき。 その足でいそいでいつもの喫茶店に行った。 書類を仕上げながら店は9時で閉店という事を意識して。 でも、もしかしたら。 彼女がまだ店にいるかもしれない。 それだけを思い、心だけ先に行っているところに追い付くように歩調を速める。 ただ、彼女に会いたくて。 いつも外から見ていた喫茶店の明るさは無く、ドアには”CLOSE”の文字。 ああ……やはり閉まってる。 そう残念に思いながら店の中の様子を伺う。 まだ誰か居るようで、カウンターの明かりだけがついていた。 もしかしたら、と思いノックしようと左手で軽く拳を作った。 が、ドアを叩く勇気は無かった。 ドアに背を向け帰ろうとした瞬間、背中からキィ……と喫茶店に入る時に聞こえるいつもの音。 振り返ると、彼女が居た。 疑問符を描く前に彼女の口から思いもよらない質問が投げかけられた。 「あの、店閉めちゃいましたけどもし良かったらコーヒー飲んでいきませんか?」 「あ……はい。でも良いんですか?」 「いいんです。というより、あなたが来るかなってお待ちしてたんです」 これは何なのだろう。 夢? まだ少し空調の温かさが残る店内。 2人だけの空間はいつもの金曜日よりも貴重さを増していた。 と同時に、やはりまだ夢なのだろうかという疑い、にこやかに微笑む彼女は現実に、いま、この瞬間、私の目の前に居る。 私の目の前に出されたコーヒーは何時もよりほんの少し甘く感じた。 恋という名の甘味料はコーヒーの苦さをも変えるのだ。 |